1986年

 セカチューが人気である。映画のみならず、後発でドラマまでやっている。著者には大変申し訳ないけれど、昨年の年末、どうしても泣きたくて、海外へのお供に「セカチュー」を選んだ。本日のお題は1986なのに、なんでセカチューなの? まぁ、まぁ。とにかくセカチューだったのだ。だって、みな口々に「泣けました」「涙が止まりませんでした」って言うんだよ!。あの柴崎コウが泣くなんて、そりゃよっぽど泣けるんだ、さすがの私も滝のように泣けるに違いない、とよっしゃー泣きまくるぜ! と大きな期待を抱き、空港バスに乗るなりいきなり表紙を開いた。
 ところが、いっこうに泣けない。そうだ、このストーリーの仕立て方は、大映テレビの連ドラか赤いシリーズそのものじゃん! 白血病なんて、何十年も前からすっかり見慣れたお話だし、オーストラリアに行くあたりがちょっと昔じゃコスト面からあり得なかったよね、と気にかかるのはバックヤードの方ばかり。偶然にも、私の行き先もオーストラリアだ。いやー奇遇! ってな具合で、ぜんっぜん、泣けない。それどころか、こんなにも泣けないってどうよ! と毒づく自分の姿が、「みーんなが泣いているこの話で、泣けないお前は泣く遺伝子が変異している冷徹人間だー」と主張しているようで、すっかり、興ざめしてしまった。もっというなら、期待が大きかった分、涙のひとすじも流すことができなかった怒りは、私を、砂浜へ本を投げるという暴挙にすら駆り立ててしまった。いやはや大人げない。
 結局、自分ではひとしずくの涙もこぼすことができず、貸した人みなが「いや〜夫婦揃って泣きました」なんて感想を語ってくれるというおまけまでついて、チーム冷徹は孤軍奮闘するのみ、となっていた。
 ところが、セカチューには意外なる「とんがり」があったのだ! 涙とまではいかないけれど、こんな私でも、なにやら切ない気持ちを楽しめる(結局楽しんでいる)。それこそ、まさに1986年という時代設定そのものだ。
小説のセカチューは、時代を特定してはいない。が、映画とドラマでは、明確に1986年という時代設定になっている。登場人物はみな、ウォークマンを買い、レコードをダビングしたカセットを貸し借りし、そして深夜放送に傾聴する。受験を控えた彼らには、華やかな遊びはない。帰り道にコーラと一緒に頬ばるたこ焼きが、せめてものぜいたくなのだ。スタバでおしゃれに夜通し喋ったりもしない。帰り道、曲がり角の電信柱の下でヤブ蚊にさされながら、くだらない話を親にうるさく言われずに済む時間まで続けるだけだ。彼らの手に握られた、真新しいウォークマン。それこそ、大学2年生になりバイトをはじめ余裕ができた私が手に入れた「メタルカラーウォークマン」そのものだ。新宮駅前で全開のリュックから落としてバッテリーケースの小さなつまみが折れてしまった、あのウォークマン。中にはアクシアの透明で薄型のカセット、レベッカの"TIME"が入っていただろうか。
 ドラマのなかで、時代の空気を雄弁に語る数々の小道具たち。思えば私たちはバブルにも乗り遅れ、会社へ入ったときにはすでに不景気ははじまっていた。すぐそばにいる華やかな人の足許に潜む、陰の長さ……。それでもまだ、すぐに上向きになるのさ的な雰囲気は漫然と漂っていて、それは新入社員の私にも、ディスクマンをキャッシュで購入、コンポに車、と消費生活を十分に謳歌させてくれた。就職活動の間はまだまだバブルで、やりたい放題だった(らしい)ため、バブルの申し子だと今でも言われる私たちだけど、実際には一部のお金持ち以外は、わりと質素な、そう、セカチューの高校生とほとんど同じような生活をしていたんじゃなかったかな。
 就職もまだほど遠かった1986年。たった一年間という時間のなかで、後々世に残っていったSongsなりArtistsがきら星のごとく生まれた年。そして五線譜の上には、それぞれの人にこぼれおちるほどの思い出があるわけで。図々しいけれど、散りばめられた曲の数々が、今でもあの時間に戻してくれるような気がしてならないのだ。もちろん、気持ちだけだけどね。(だから決してiPodで聴きつつも、電車の窓に映った自分は見ない)